FIAU臨床試験:不備と死者で揺れたFDA調査【ChatGPT統計解析】
1993年にFIAU臨床試験の参加者が入院し、試験の中断と他の患者への通知が行われた。その後、試験に関与する全ての機関やFDAへの報告が迅速に行われ、数ヶ月間にわたり調査が進められた。調査の結果、プロトコールや記録管理は概ね適切であったが、1つの投与ミスが指摘された。また、死者が出たことで研究者の判断に対する疑問が生じ、科学的不正行為の問題も浮上した。FDAは試験記録を監査し、手続き違反や文書管理の不備を指摘した。FDAと研究者の間には肝臓検査の評価に関する見解の相違があり、FIAUの毒性について十分な警告がされていなかったことが問題視された。FDAは最終的に懲戒レターを発行し、試験の進行を批判したが、NIHの委員会は、適切な臨床判断が行われていたと結論付けた。しかし、両機関の調査結果に食い違いが生じ、さらなる検討が必要とされた。
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調査開始
研究対象患者において重篤な有害反応が起こった場合,多くの人はそのことについて速やかに通知される必要がある.
試験参加者が1993年6月下旬に入院したことに伴い,他のすべての患者に連絡し,FIAU服用を中止する必要性を強調した.
同日,我々は,他のFIAU試験を開始したボストンおよびテキサス州ガルベストンの研究者に通知し,試験依頼者(スポンサー)に電話連絡した.
我々は,施設の臨床試験の責任者. IRB.さらにFDAに電話した.続く数日間に,文書による報告をFDA.上級NIHスタッフ,保健福祉長官に提出した.
その後の数ヵ月間,臨床研究監視にかかわったNIH事務局のすべての人が,FIAU試験を調査した.
各調査グループは,それぞれに別々の懸念を持っていた.
我々のIRBおよHuman Subjects Researchのスタッフは,すべての患者がプロトコール基準を満たし.同意書に署名していたことを証明しようとした.
品質保証当局の関係者は,臨床カルテがすべての患者に関して来院の詳細を記録していたかなどの調査を試みた.
その後,これらのグループのそれぞれから,筆者ら研究者がプロトコール提出,臨床記録,同意書,報告に関してすべての手順を適切に守っていたことを証明した正式な報告が提出された.
最初の試験で報告していた1回の投与用量ミスを除き,すべての薬物投与および用量変更は適切であった.
カルテは,すべてに関して望ましい基準以上であることが示された.チームのフェローならびにリサーチナースはしっかりと仕事をしていたことを知っていたが,特に入念に計画された試験により数名の死者が出たため,研究者自身の資質と助機に疑問を感じていた.
しかし,外部の人闘が同じように考えたことを知り安心した.
臨床研究は,透明性の高い公的な事業のひとつといえるため,我々の数例の被験者の死亡を調査する圧力は. NIHを越えて急速に普及した.
患者の死亡後の混乱した報道は.一般大衆の興味をかきたてることとなり.問い合わせが殺到した.
誰もがなぜこのような悪い結果になったかという意見をも持っていたようであった.
一部の人は.この種の悲劇は研究者の不正行為によるものと単に想像しがちであった.
このような不正行為がなければ, IRBおよびFDAの通常の部署が,被験者を傷害および死亡から保護することができると考えられていた.
科学的な不正行為
FIAU試験の事情が明らかになるにつれ.国内の関心は,既に数人の著名な米国科学者の不正行為問題に集中していた.
同様の関心が我々にも向けられることを恐れた.
ベトナム戦争およびウォーターゲート公聴会は,政府の広範囲に及ぶ疑惑を引き起こし,調査報道記者なるものが出現するようになった.
これらのジャーナリストは,汚職だけでなく,かつて我々が信頼していた公的機関の危うい弱点を暴くことを目的としていると考えられた.
さらに,科学的な立証が調査報道の焦点となるまでに,長くはかからなかった.
1983年,影響力を持つ科学ジャーナリストであるWilliiam Broad およびNicholas Wade は.不正行為は現代の科学に特有であることを示唆した.
彼らは,がん細胞の臨床検査に関する偽造を認めたマサチューセッツ総合病院のJohn Long, さらに神経性食欲不振症に関する論文で不正確なデータを提示したエール大学のVijay Soman の例について明らかにした.
通常科学には,観察者のバイアスが内在するものであると結論づけた科学歴史学者Thomas Kuhn とは異なり,BroadとWadeは,科学を巡る競争のため.科学者が意図的に不正確なデータを提示したと主張した.
また,ハーバードの将来有望な若手心臓専門医John Darseeが,実験データを偽造したことで, NIHによりさらなる研究補助金を受ける資格が剥奪されたという1983年の新事実は. BroadおよびWadeのシニカルな論調を支持するだけだった.
連邦議会は,これらの事件を調査し. NIHは,外部機関が調査するのを待つよりもむしろ科学そのものを取り締まる圧力を感じた.
1989年,保健福祉省は, NIH内に科学公正局(Office of Scientific Integrity, OSI)を設立した.
1992年. OSIがNIHから保健担当補佐官室(Office of the Assistant Secretary for Health)に移動したことからその役割が拡大され,研究公正局(Office of Research Integrity, ORI)と改称された.
その設立の初年度. OSIは.HWの共同発見者であるRobert Gallo を調査した.
1989年, Chicago TribuneのJohn Crewdson は. Galloがパリのパスツール研究所のLaic MontagnierからHIV分離株を盗み出したと主張する50,000ワードに及ぶ記事を書いた.
1992年後半,新たに構成されたORIは, Galloおよびその関係者Mikulas Popovic を科学的不正行為で有罪とした.
しかし. 1993年11月,控訴によりORI評決は覆された.
Galloの調査が終了した時点で. ORIは,科学的不正行為が疑わしい別の事例に取りかかった.
「The Baltimore Case」においてDaniel J. Kevlesにより批評されたように,この事例の告発は,タフツ大学のThereza Imanishi・Kari およびマサチューセッツエ科大学のノーベル賞受賞者David Baltimore による雑誌Cellの1986年度論文に端を発した.
その発表の少し後,Imanishi-Kariの博士研究貝Margot 0Tooleは,そのデータの一部を偽造したことで彼女を訴えた.
Baltimoreは,その記事に重要なあるいは故意の間述いがないということで. Imanishi-Kariを擁護した彼は.一部の著明な科学者,メデイア.さらに大々的に報道された
公聴会においては下院議員John Dingellにより強い非難を受けた.
彼の失敗は,自身を同僚から遠ざけたことである. BaltimoreとImanishi Kariはともに,全く同じような汚名を着せられた.
Imanishi Kariに対する告発は. 1996年までに確定されず,最終的に控訴により, ORIの不正行為の評決は覆されたが,今日まで, Baltimoreは,彼女の擁護における彼の明らかに傲慢な態度を非難されている.
1990年代半ば. GalloおよびBaltimoreおよびその共同研究者に関するORIおよび連邦議会による調査は,科学が巨大なエゴと不正行為の起こりやすい傾向に満ちているという世論感情をあおった.
このようなことが, FIAU試験の死亡事件の背景にあった.
これはマウスや抗体実験のデータを偽造した話ではなく.人の命が失われた話であったため,臨床研究に対する関心は非常に高かった.
FDAは,強制的に調査せざるを得なくなった.
FDA
FIAU臨床試験の準備中およびその試験期間を通して,FDA審査官と頻繁かつ非常に建設的に連絡を取り合った.
しかし,患者の死亡に関連して,FDAの全く異なる部署とも連絡を取り始めた.
例えば, Office of Compliance (コンプライアンス局)である.そのスタッフは,当該試験に関し一連の監査および審査を開始した.
FDA査察官は,試験記録のすべてを調査し, FDA Form 483,Notice of Inspectional Observation (審査所見通知書)を示した.
この時およびその後のやりとりを通して,他の研究者が臨床試験の実施を通して学ぶよりもはるかに多くのFDAの手順について知ることができた.
FDAによる監査はよく行われ定期的なものであるが,研究用薬を使用する特権を剥脱することができ.最悪の事例においては法的処分ができるため, FDAによる監査は非常に真剣に受け止めるべきものである.
この最初の報告は,恐れていたよりも良心的なものであった.すべての記録評価について,FDA調査官は次の一文の結論を出した.
「被験者409の入院に関する有害事象は.スポンサー/モニターに電話で報告されたが,プロトコールで規定されていた文書による事後の報告は行われていなかった.」臨床試験において,いかなる理由であれ被験者の入院などの「予測できないまたは重篤な有害事象」がみられた場合,すぐに薬物のスポンサーおよびFDAに報告し,さらにその後,文書による要約を平日3日以内に提出する必要がある.
これは. FDAに.より多くの被験者が同じ反応を発現する前に,試験を一時的または永久的に停止する機会を与えようとしたものである.
患者入院の電話連絡の後,適切なタイミングで文書による報告を提出することを忘れていた.
簡潔でかつ手順を中心に示した同様の報告は,他のFIAU試験のすべての研究者たちに対し発布された.
しかし.そのうえ,慢性HBV感染の真の性質を誤解し,その治療を適切にモニターすることができなかったか,事前に終了していたすべてのFIAU試験データの解釈を間違えて,明らかな毒性の徴候を見落としたのか等々記載された長文の報告書を発行された.
1993年11月, FDAの調査官および顧問は,試験における判断および行動を厳しく批判した90ページにわたる「Report of an FDA Task Force,Fialuridine : Hepatic and Pancreatic Toxicity (FDA特別委員会報告,フィアルリジン:肝および膵毒性)」を発表した.
主に2つの批判が示された.
同意書にFIAUで起こり得る毒性がすべて開示されていなかったこと,そして,薬物に対する反応の解釈に深刻な誤りを犯したことであった.
最初の批判について,プロトコールの同意書は長く,骨髄,肺,消化器,筋肉,腎,神経の毒性が考えられることも示されていた.
我々は. FIAUが新薬であり,急性または慢性毒性のすべてがわかっているわけではないことを示していた.
しかし,薬物が肝臓を損傷する可能性があることあるいは致命的になる可能性があることについては示唆していなかった.
第二の批判は,肝臓専門医とFDAとで,肝炎に対するFIAU治療でみられた肝臓に関する検査成績の評価に関する基本的な考え方の違いに基づくものであった.
文献および過去の経験から,メカニズムによるHBV感染肝細胞は壊され.その過程で,肝酵素レベルは治療中に上昇し.これらの上昇はHBV DNA および抗原の血中からの消失と相関しうるとしていた.
一方FDAの審査官らは.このような酵素変化が肝毒性を反映するはずであると強く考えており,そのように考えなかったため,FIAU長期間投与が致命的な肝不全を引き起こしうることを予測し得なかったと考えたのである.
これらの結論に対し,FDAは. 1994年5月,公式の懲戒レターをFIAUのすべてのPIへ発行した.
FDAは.再度,「プロトコール違反(protocol violation)」,同意書の不備,臨床的判断の誤りを列挙した.
FDAの強大な規制当局の前では全くの無力であった.
FDAは,研究から得られた科学的利点に関係なく,毒性のある薬物の試験を進めることをFDAが許可したという批判から自身たちを守るためもあり,選択したと考えられた.
さらに, 1980年代を通して. FDAには重篤なAIDS患者に一刻も早く新薬を届けるようにという目的のため, FDAの審査は簡略化されていた.
FIAUのエピソードは. FDAの弱点が一般大衆の安全性の犠牲により明らかとなったことを示している.
米国国立衛生研究所(NIH)
NIHではIRB,品質保証部,ヒト対象研究局,研究リスク保護局による多くの審査がなされたが,研究者が. 1993年秋にNIH所長により委任された調査ほど好ましいものはなかった.
医学,薬学,看護学の教授.さらに開業している消化器専門医により,所長諮問委員会の小委員会として組織された.
この委員会は,すべてのプロトコール,すべてのIRB議事録,すべての患者カルテの評価を行った.
委員会は,FIAU試験に関わったすべての医師および看護師,さらにすべての患者および死亡患者の家族にインタビューを行った.
諮問委員会は. 1994年6月,「これらの症例それぞれには,適切な臨床判断が行われ,患者の安全性は損なわれなかった.」と結論した.
しかし.当該委員会の指図はFDAとは異なっていた. FDAへの有害反応の報告時期の適切性または完全性に関する法的要件については懸念を表明しなかった.
それにもかかわらず,委員会は以下のように述べた:
……これらの試験でみられた遅発性または晩期毒性の症候群の性質により,報告された事象のいずれもが,たとえ重大となっても,悲劇的な結果に関連するとも,あるいはそのような結果を避けることができたとも考えられないとされたが,このことはまだ論争中である.
急場に作成した弁明で一時的なものである. FDAとNIHの「内部」で行われた調査の矛盾した結論は,「公平な」調査体制を通した検討が必要と思われた,
1993年6月下旬にFIAU臨床試験の参加者が入院したことをきっかけに、試験を中断し、すべての患者に連絡する必要性が生じました。その際、FIAUの服用を直ちに中止することが強調され、同日に他の研究施設、具体的にはボストンやテキサス州ガルベストンの研究者たちにもこの事態が通知されました。試験の依頼者(スポンサー)に対しても電話での連絡が行われ、迅速な対応が取られました。さらに、我々は臨床試験の責任者、倫理審査委員会(IRB)、そしてFDAにも連絡を取り、続く数日間のうちに文書による正式な報告を提出しました。これらの報告はFDAの上級スタッフやNIHの上級幹部、さらには保健福祉長官にも送られました。この事件を受けて、NIH事務局のすべての関係者がFIAU試験を徹底的に調査し、それぞれの調査グループが別々の懸念を持って対応しました。IRBとHuman Subjects Researchのスタッフは、すべての患者がプロトコール基準を満たし、同意書に署名していたことを証明しようとし、品質保証当局の関係者は、臨床カルテがすべての患者に関して適切に記録されているかを確認するための調査を行いました。その後、これらの調査グループは、研究者たちがプロトコールの提出、臨床記録、同意書、そして報告に関してすべての手順を適切に守っていたことを証明する正式な報告書を提出しました。この一連の調査で明らかになったのは、最初の試験で報告された1回の投与量ミスを除き、すべての薬物投与と用量変更は適切に行われていたということです。カルテの記録も非常に高い基準を満たしており、チームのフェローやリサーチナースがしっかりと業務を遂行していたことが確認されました。しかし、特に入念に計画された試験で数名の死者が出たことから、研究者自身もその資質や判断に対して疑問を感じることがありました。ただし、外部の人々も同様の結論に達したことは一種の安心材料となりました。臨床研究は非常に透明性が高く、公的な事業の一つであるため、少数の被験者の死亡はNIHを超えて広範な関心を呼び起こし、さらなる調査の圧力がかかりました。患者の死亡後には混乱した報道が行われ、それによって一般の興味がさらに刺激され、問い合わせが殺到する事態となりました。多くの人々がこのような悲劇的な結果について意見を持ち、ある者は研究者の不正行為が原因であると疑いました。このような背景のもと、不正行為のない場合でも、IRBやFDAの通常の規制が被験者を傷害や死亡から守るはずだという考えが強く主張されました。このFIAU試験の事態が明らかになるにつれて、科学的な不正行為に関する国内の関心が既に高まっていたことも事態を複雑にしました。当時、いくつかの著名なアメリカの科学者が不正行為に関与していたことが問題視されており、我々の研究にも同様の関心が向けられることを恐れました。これはベトナム戦争やウォーターゲート事件の後、政府機関に対する広範な疑惑が高まり、調査報道記者が登場した背景とも関係しています。調査報道記者は汚職だけでなく、信頼されていた公的機関の弱点を暴くことを目的としており、科学的な不正行為もその対象となり始めていました。1983年には、科学ジャーナリストのWilliam BroadとNicholas Wadeが、現代の科学において不正行為が特有の問題であると主張しました。彼らは、がん細胞の臨床検査に関するデータを捏造したマサチューセッツ総合病院のJohn Longや、神経性食欲不振症に関する研究で不正確なデータを提供したエール大学のVijay Somanの例を取り上げ、不正行為が科学に内在する問題であることを示唆しました。このような不正行為の例に加え、1983年にはハーバード大学の心臓専門医John Darseeが実験データを捏造したことで、NIHからのさらなる研究補助金を受ける資格が剥奪されるという事件も発生しました。この一連の出来事は、科学における不正行為の問題が注目されるきっかけとなり、連邦議会はこれらの事件を調査するに至りました。NIHもまた、外部機関による調査を待つのではなく、科学そのものを取り締まる必要性を感じるようになり、1989年に科学公正局(OSI)を設立しました。OSIは1992年にNIHから保健担当補佐官室に移管され、その役割が拡大されて研究公正局(ORI)と改称されました。OSIの設立初年度には、HIVの共同発見者であるRobert Galloが調査の対象となりました。Chicago TribuneのJohn Crewdsonは、Galloがパリのパスツール研究所からHIVの分離株を盗んだと主張する詳細な記事を執筆し、その後、Galloと彼の同僚であるMikulas Popovicが科学的不正行為で有罪とされたものの、最終的には控訴によって無罪となりました。このような事件の後、ORIは新たな不正行為の疑いがある事例に取り組み、「The Baltimore Case」として知られる事件が注目されることとなりました。これは、タフツ大学のThereza Imanishi-Kariとノーベル賞受賞者のDavid Baltimoreが共同で発表した1986年の論文に端を発したもので、データの一部が捏造されたと告発されました。BaltimoreはImanishi-Kariを擁護しましたが、下院議員John Dingellによる強い批判を受け、結果的に彼の評判は大きく傷つけられました。この事件は、1996年に最終的にImanishi-Kariの無罪が確定し、ORIの不正行為の評決も覆されましたが、科学界における不正行為の疑念は引き続き残り、特にFIAU試験の死亡事件がその背景にあるとされました。このFIAU試験は、マウスや抗体実験のデータ捏造とは異なり、人命が失われた重大な事案であったため、臨床研究に対する関心が非常に高まりました。このため、FDAは強制的に調査を開始せざるを得ませんでした。FIAU臨床試験の準備段階や試験中には、FDAの審査官と頻繁に連絡を取り合い、非常に建設的な関係が築かれていましたが、患者の死亡に関連して新たにコンプライアンス局などの別の部署とも連絡を取る必要が生じました。FDAの監査は非常に詳細に行われ、審査所見通知書(FDA Form 483)が示されました。この時点で、FDAの手続きに関する知識が大幅に深まり、他の研究者が学ぶ以上に多くのことを知ることができました。FDAの監査は定期的に行われるものですが、研究用薬の使用を禁止する権限があり、最悪の場合には法的措置を取ることができるため、その監査は非常に真剣に受け止めるべきものでした。
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