ニュルンベルク綱領と現代臨床研究倫理の進化【ChatGPT統計解析】
臨床研究の歴史において、20世紀半ばまで医学研究の倫理はあまり議論されていなかったが、1946年のナチス医師の裁判を契機にニュルンベルク綱領が作成され、研究倫理が重視されるようになった。この綱領は被験者のインフォームド・コンセントと科学的に妥当な研究デザインを求める重要な原則を含むが、米国ではその導入が遅れ、1950年代から70年代にかけて刑務所での被験者を対象にした非倫理的な研究が行われた。1960年代以降、米国では被験者の権利保護が強化され、1964年にWHOがヘルシンキ宣言を採択、1970年代のタスキギー事件などを経て、1974年に国家研究法が制定され、ヒト被験者保護に関する規制が整備された。ベルモンド・レポートは、診療と研究の区別や倫理原則の適用についての指針を提供し、1981年に最終的な連邦規則が承認され、1991年には「コモン・ルール」が他の連邦省庁にも採用された。
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臨床研究の歴史的基盤
医療の実践に関する倫理は古くから懸念されてきたが,20世紀半ばまでは,医学研究に関してではなく.治療行為の実践に関しての倫理にほとんどの議論が集中していた.
1946年.23人のナチスの医師は.戦争捕虜に対して強制収容所で行った残虐行為(犯罪)についてニュルンベルクで裁判にかけられた.
これらの犯罪には,著しい低温下にヒトをさらす,切断手術の実行,致死性の病原体を恣意的に感染させるといったものが含まれていた.
この裁判の間に,ヒトを対象とした研究行為に対する基本的な倫理基準がニュルンベルク綱領(Nuremberg Code)の中に成文化されており,ヒトを対象とした研究を正当化するために満たさなければならない10項目の基本原則が示された.
そのうち2つの重要な原則は. (1)被験者の自主的なインフォームド・コンセントが必要であることと, (2)社会に貢献する実りのある結果をもたらし得る科学的に妥当な研究デザインを組むことである.
ニュルンベルク綱領は世界人権宣言(Declaration of Human Rights)に反映され,建前上は国際連合の原加盟国51力国各々に受け入れられた.
しかしながら,米国内においては,ニュルンベルク綱領の存在は広く受け入れられなかった.
ニュルンベルク綱領に精通していた研究者や医師でさえ,この綱領が要求するものはドイツ人研究者によって行われる研究に適応されるものであり.米国で行われている研究への適合性や関連性はほとんどないと考えていた.
実際に,米国においてニュルンベルク綱領の最初の原則一選択の自由を行使することのできる被験者による自主的な同意-の履行が無視されていなかったなら,服役者を対象とした研究は大幅に減少していたであろう.
米国では1950年代から1970年代半ばまでの間,がんや他の疾患/障害に対する多くの化学療法薬は,最初に健康な服役者を対象に試験が行われていた.
実際に,いくつかの製薬会社は,研究を容易にするために刑務所の敷地内や近くに研究所を構えていた.
ゆえに,ニュルンベルク綱領を履行していたなら,米国の研究行為は大きくかつ劇的な影響を受けていたであろう.
また,ニュルンベルク綱領の原則を受け入れていた国々のほとんどは.米国を含めて,その条件に従えるだけの仕組みを有していなかった.
1953年に米国立衛生研究所(National Institutes of Health, NIH)はメリーランド州ベセスダにその最大の研究病院であるクリニカルセンター(Clinical Center, CC)を開設し,ヒト被験者の保護に関する連邦政府の方針を初めて打ち出した.
この方針は,研究に参加することによって直接的に得るものがほとんどない健康な成人の被験者を保護することに特に重きを置いているという点において,ニュルンベルク綱領と一致していた.
CCの方針は,その存在自体だけではなく,研究に直接関係していない,もしくは知的財産権をもたない人が研究を前もって審査するという仕組みを提供したことにおいても革新的であった.
この仕組みが研究審査機構― IRB ―の始まりであり,いまや米国全体にわたる,ヒト被験者保護のための現行システムにおいて欠かすことのできないものとなっている.
実際に,CCの研究審査委員会に提出された最初の2つの研究プロトコールは,健康な被験者に対する研究関連リスクが高すぎると判断されたために承認されなかった.
しかしながら.前もって研究を審査することと被験者からインフォームド・コンセントを得ることというCCの要件は,健康な被験者が参加する研究に対してのみ適用され,患者を対象とする研究には適用されなかった.
患者を対象とする研究をこれらの要件の対象から除くという点で,CCの方針は,同時代の米国の医師/研究者の考え方に合致したものであった.
医師/研究者のほとんどが,患者を対象とする研究行為に関して前もって明確な規定を設けるようなことは,研究を妨げ,医師への信頼を損なう可能性があると主張して,規定を設けることを嫌がった.
1960年代に,連邦政府の臨床研究に対する予算が拡大され,それと同時に被験者として参加する者の数が増加した.米国内で人権について注目されることが全般的に増えたためのみならず,臨床研究の濫用が大々的に公表されることが多くなったために,研究被験者の権利に対する関心が高まった.
例えば,ニューヨークの研究者が,ヒトの免疫系についてさらに知識を深めるために,高齢の貧困者に同意なしで生きたがん細胞を注射するという事件が新聞で報道された.
被験者に明らかな危害は生じなかったが,研究者は詐欺行為,専門職としてあるまじき行為,として出頭を命じられた.
1966年,ハーバード大学出身の非常に尊敬された医師であり研究者であるHenry Beecher は.米国のトップクラスの研究施設の多くでも,ヒトを対象とした研究において非倫理的もしくは倫理的に疑問のある行為がまかり通っていると報告し医学界に衝撃を与えた.
世界保健機関(World Health Organization, WHO)は.ニュルンベルク綱領よりさらに広い対象範囲を統括する指針の必要性を認めており,「ヘルシンキ宣(Declaration of Helsinki) :ヒトを対象とする生物医学研究における医師の規範(Recommendations Guiding Medical Doctors in Biomedical Research Involving Human Subjects)」が1964年に世界医師会(World Medical Society, WMA)で採択された.この指針は何回もの改訂を経て,現在では世界中で用いられている.
NIHはJames Shannon 総指揮のもと,ヒト被験者の保護についての,初の公衆術生上のサービスポリシー(Public Health Service Policy on the Protection of Human Subjects)の作成をすすめ. 1966年に発出した.
この方針は. NIHを統括していた保健教育福祉省(Department of Health, Education, and Welfare.HEW)によって実施もしくは支援される研究に適用され,ヒトを対象とする研究において.参加する被験者の権利と福祉,インフォームド・コンセントを得るために用いられる方法の妥当性,研究のリスクと想定される便益を考慮に入れながら,前もって審査を行うことを要求した.
インフォームド・コンセントの構成要素には,同意が文書で作成され,被験者もしくはその代理者によって署名されなけれぱならないという要件も含まれていた.
1970年代初めに起きたいくつかの事件により,米国ではヒト被験者を保護するために再び多くの努力を注ぎ込むことを余儀なくされた.
最も注目されたのが,タスキギー(Tuskegee)事件の発覚であった.
1930年代以降,アラバマ州タスキギーで,400人以上の黒人男性が本人の知らないうちに,梅毒の自然経過をみる長期観察研究(タスキギー梅毒研究Tuskegee Syphilis study)の対象とされていた.
これらの男性群には,梅毒の標準治療としてペニシリンが導入された後でさえ,組織的にペニシリン投与が行われなかった.
上院の労働・人的資源委員会(U.S. Senate Committee on Labor and Human Resources)は,この研究と,他に未確認ながらも服役者と子どもの健康管理に関する虐待容疑について聴聞会の場を設けた.
これらの聴聞会の結果は次のようであった.
(1) 1974年国家研究法(National Research Act of 1974)を制定し, HEWにヒト被験者の保護に関する方針を連邦規則に成文化するよう求め.同年に施行すること.
(2)生物医学と行動研究における被験者の保護のための国家委員会(National Commission for the Protection of Human Subjects of Biomedical and Behavioral Research)を設立すること.
(3)生きているヒトの胎児を対象とするHEWが実施もしくは支援する研究には,国家委員会(National Commission)が調査し,勧告を出すことができるようになるまで実行猶予期間を課すこと.
国家委員会は1974年から1978年まで設置された機関で,現存のHEW規則を評価し. HEW長官に改善点を勧告し.妊娠女性,生きているヒトの胎児,服役者,小児,精神障害者と精神外科学の適用に対する研究についての報告書を発行した.
国家委員会はまた,「ベルモンド・レポート(Belmont Report):ヒトを対象とする研究における被験者の保護に関する倫理原則と指針(Ethical Principles and Guidelines for Protection of Human Subjects of Research)」を発表した.
公共政策が発展する中での大きな進歩として,ベルモンド・レポートは診療と研究を区別する指針を規定し,ヒト被験者の保護に関する3つの基本的な倫理原則を明確にし,倫理原則をどのようにしてヒトを対象とする研究行為に適用するべきかを説明した.
1979年, HEWは1974年の規則を改訂する行程に入ったが. 1981年1月になってやっと.行政機関(保健福祉省Department of Health and Human Services, DHHSと改名された)からの最終的な承認が,ヒト被験者の保護に関する連邦規則集(Code of Federal Regulations : CFR) 45巻46章(45 CFR 46)に与えられた.
当初これらの規則は,研究がDHHSによって実施もしくは支援されている場合にのみ適用可能であったが, 1991年6月には,規則の中心となる部分(Subpart A)−コモン・ルール(Common Rule)と呼ばれるーが16の他の連邦行政省庁によって採択された.
臨床研究の歴史的基盤は、医療倫理に対する長年の懸念とそれに対する対応の積み重ねから成り立っています。20世紀半ばまで、医学に関する倫理的な議論は主に治療行為に焦点を当てており、研究行為に関してはほとんど考慮されていませんでした。しかし、1946年に行われたニュルンベルク裁判で、23人のナチス医師が戦争捕虜に対して強制収容所で行った残虐な行為について裁かれたことが、臨床研究の倫理に関する大きな転機となりました。これらの医師たちは、極寒の環境に人間をさらす、切断手術を実行する、致死性の病原体を意図的に感染させるといった非人道的な実験を行っており、これが犯罪行為として告発されました。この裁判を通じて、ヒトを対象とした研究行為に対する基本的な倫理基準がニュルンベルク綱領(Nuremberg Code)として成文化されました。この綱領は、ヒトを対象とする研究を正当化するために満たすべき10項目の基本原則を示しており、その中でも特に重要な2つの原則が(1)被験者の自主的なインフォームド・コンセントが必要であること、そして(2)社会に貢献する実りある結果をもたらすために、科学的に妥当な研究デザインを採用することです。このニュルンベルク綱領は、1948年に採択された世界人権宣言(Declaration of Human Rights)にも反映され、国際連合の原加盟国である51か国がその精神を受け入れました。しかし、米国においては、ニュルンベルク綱領は広く受け入れられませんでした。当時、米国の多くの研究者や医師は、ニュルンベルク綱領の要求がドイツの研究者による行為に適用されるものであり、米国内の研究には関連がないと考えていたのです。実際、ニュルンベルク綱領の最初の原則である「選択の自由を行使できる被験者による自主的な同意」が厳格に履行されていたならば、米国内で服役者を対象とした多くの研究は実施できなかったでしょう。特に、1950年代から1970年代半ばにかけて、がんやその他の疾患に対する化学療法薬の試験が健康な服役者を対象に行われていた事実は、倫理的な問題を提起しています。いくつかの製薬会社は、研究を容易にするため、刑務所の敷地内やその近くに研究所を設けるほどでした。もしニュルンベルク綱領が完全に遵守されていたならば、米国の研究行為は大きく変わっていたでしょう。しかし、ニュルンベルク綱領の原則を受け入れた国々でさえ、その条件を完全に満たすための仕組みを整えていたわけではなく、米国もその例外ではありませんでした。1953年、米国立衛生研究所(NIH)はメリーランド州ベセスダに最大の研究病院であるクリニカルセンター(Clinical Center, CC)を開設し、ヒト被験者の保護に関する連邦政府の初の方針を打ち出しました。この方針は、特に研究に参加しても直接的な利益を得ることの少ない健康な成人の被験者を保護することに重点を置いており、ニュルンベルク綱領と一致していました。また、CCの方針は、研究に直接関与していない、または知的財産権を持たない第三者が研究を事前に審査する仕組みを提供し、これは後に研究審査機構(IRB)の始まりとなりました。IRBは、現在の米国全体に広がるヒト被験者保護のシステムにおいて欠かせない存在となっています。実際、CCの研究審査委員会に最初に提出された2つの研究プロトコルは、健康な被験者に対する研究関連リスクが高すぎると判断され、承認されませんでした。しかし、CCの要件は、健康な被験者が参加する研究にのみ適用され、患者を対象とする研究には適用されていませんでした。当時の米国の医師や研究者の多くは、患者を対象とする研究行為に対して事前に明確な規定を設けることは、研究を妨げ、医師に対する信頼を損なう可能性があると考え、これに反対していました。しかし、1960年代に連邦政府の臨床研究に対する予算が拡大するとともに、研究に参加する被験者の数も増加しました。さらに、米国内での人権に対する関心が高まり、臨床研究の乱用が公にされることが増えたため、研究被験者の権利保護に対する関心も一層高まりました。例えば、ニューヨークの研究者が、高齢の貧困者に対して同意なしに生きたがん細胞を注射するという事件が新聞で報道されました。この事件では、被験者に明らかな危害は生じなかったものの、研究者は詐欺行為や専門職としての不適切な行為として告発されました。このような事例が増える中で、1966年にはハーバード大学出身の尊敬される医師であり研究者であるHenry Beecherが、米国のトップクラスの研究施設でも、ヒトを対象とした研究において非倫理的または倫理的に疑問のある行為がまかり通っていると報告し、医学界に衝撃を与えました。このような状況を受けて、世界保健機関(WHO)はニュルンベルク綱領よりも広い範囲を統括する指針の必要性を認め、1964年に世界医師会(World Medical Association, WMA)で「ヘルシンキ宣言(Declaration of Helsinki)」が採択されました。この宣言はヒトを対象とする生物医学研究における医師の行動規範を定めており、何度も改訂され、現在では世界中で用いられています。米国では、NIHの総指揮を務めたJames Shannonのもと、1966年にヒト被験者の保護に関する初の公衆衛生ポリシー(Public Health Service Policy on the Protection of Human Subjects)が発出されました。この方針は、保健教育福祉省(HEW)が実施または支援する研究に適用され、ヒトを対象とする研究において、被験者の権利と福祉、インフォームド・コンセントの妥当性、研究のリスクと便益を事前に審査することを求めました。特にインフォームド・コンセントに関しては、同意書が文書化され、被験者またはその代理者が署名することが義務付けられました。しかし、1970年代初頭に発覚したタスキギー事件は、米国でのヒト被験者保護に関する議論を大きく前進させました。この事件では、アラバマ州タスキギーで400人以上の黒人男性が梅毒の自然経過を観察するための研究対象となり、彼らには梅毒の標準治療であるペニシリンが投与されなかったことが明らかにされました。これにより、米国ではヒト被験者の保護に向けた法的な枠組みが急速に整備され、1974年には国家研究法(National Research Act)が制定されました。
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