傘を持つべき?統計が教える日常の判断術【ChatGPT統計解析】
確率は測定ではなく、仮定に基づいて定義されるものであり、真偽を確かめることはできません。例えば、降水確率80%では「濡れなくてよかった」と感じることが多くても、それは長期的な統計的結果に過ぎません。同様に、サイコロの出目の確率も、十分な回数試行した結果に基づく仮定に依存します。確率の定義はラプラスの考え方に基づきますが、実際には仮定の真偽を確認することは不可能であり、確率自体は定義に過ぎないことを理解する必要があります。
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確率と統計的意思決定
仮に、あるくじの当たり確率がわかったとしても、次にくじを1回引くとき、当たりが出るかどうかは何とも言えません。
ただ、「これからもくじを引き続けると、長い目で見れば10回に3回の割合で当たりが出るだろう」という数値で、次の1回の機会での当たりくじの「出やすさ」を表現しようというのが、確率の考え方です。
たとえば、プロのギャンブラーは日常的に多くの賭けをし、長い目で見た利益を考えていますから、常に確率が大きいほうに賭けるほうが有利です。
実際、確率論という数学の始まりは、ギャンブラーがサイコロ賭博の有利・不利を数学者に相談したことでした。
しかし、1回しか賭けをしない人にとっては、「確率が大きい」ことと、「次の賭けで勝てる」こととは直接は結びつかないことになります。
降水確率80%という表現も、このような意味でとらえる必要があります。
天気予報には、長い人生で何度も接します。天気予報を信じて、80%のときに傘を持っていけば、長い人生の間には、
うち80%は「濡れなくてよかったな」
うち20%は「荷物になったな」
となるので、
20%のほうはがまんしても、80%のとき濡れないほうをとる
でしょう。こうした判断は、統計的意思決定とよばれています。
しかし、人生に1回しか引かないくじで、当たり確率が大きいほうに賭ける意味はあるでしょうか?
ないとまでは言いませんが、当たり確率が大きいことはあくまで長い目で見たときの話であることは知っておく必要があります。
確率は測定するものではなく定義するもの
中学や高校の教科書で確率を学ぶときには、サイコロの各目が出る確率は、いずれも1/6であるということを前提にしていると思います。
しかし、頻度による確率の定義から考えれば、次にサイコロを振ったときにある目が出る確率は、十分に多くのサイコロを振ってみなければわからないことになります。
しかも、十分に多くの回数振らなければなりませんが、何回振っても十分ではないのです。
また、サイコロを1万回振っても、そのうち1の目が1/6の割合で出たとしても、それはあくまで過去の実績であって、その次に1万回サイコロを振っても、1の目は1回も出ないかもしれません。
つまり、頻度による定義では、現実には確率を定めることはできません。
これでは、「これからもくじを引きつづけると、長い目で見れば10回に3回の割合で当たりが出るだろう」という言い方で確率を表現しようとしても、その10回に3回という数値を求めることができません。
それなのに、なぜ「サイコロの各目が出る確率は、いずれも1/6である」というのが、当たり前のようにいわれるのでしょうか。それは、
@各目が同じ確率で出る
A各目が出る確率は、いつサイコロを振っても同じである
という仮定を皆が認めているからです。
もしも上の仮定を認めるならば、「頻度による確率の定義」によって、サイコロを十分多くの回数振れば、1から6までどの目も同じ回数だけ出るはずです。
そこで、1から6まで、どの目のn回ずつ出たとすると、サイコロを振った回数は全部で6n回で、1の目が出る確率はn/6nすなわち1/6となります。
2から6のそれぞれの目が出る確率も同じです。
高校までに習う確率の問題は、この仮定を認めたうえで、確率、すなわち「特定の結果が現れる回数の割合」の問題を、「サイコロの目の種類などの可能性のある結果の種類の割合」の問題に置き換えたものです。
このような確率の考え方をラプラスの確率の定義といいます。
しかし、このラプラスの定義も、よく考えるとおかしなところがあります。
さきほど、「このような仮定を認めれば」と書きましたが、これが認められるかどうかは、サイコロを十分な回数振ってみないとわかりません。
これでは堂々めぐりです。
つまり、確率の定義にはどのように考えてもあやしいところがあります。
不可能な操作や、「各目が同じ確率で出る」という真偽を確かめられない仮定が含まれています。
ですから、確率は測定するものではなく、何らかの仮定をおいて「定義する」ものなのです。
ここまで述べた確率の「あやしさ」は理解しておく必要があります。
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